|
2002年6月22日
シンガポールアーツフェスティバルでの『王安メディア』千秋楽。終演後にホテルのバーで、同席していた数名に、ケラ作品をク・ナウカで上演したいという話をうち明ける。実は喜劇を取り上げたいという構想は、僕の中ではさらに数カ月前、新宿でベターポーヅを見たときに芽生えていた。「間」の良い悪いはどんなジャンルの芝居をやるにも演技のキモにちがいないのだが、俳優にとってそれを最も容赦なく鍛えられる場が喜劇だと考えたからだ。しかも、シェイクスピアやモリエールの喜劇では、その意図が徹底がしないおそれがある。たとえ面白くなくても、ありがたみさえ醸し出していればク・ナウカの芝居としては観客から許されかねないからだ。だから、せっかく喜劇をやるなら、“ありがたみ”からはなるべく遠い作品を選ばなければ意味がない。ケラ作品を、というアイディアはこうして導き出された。………それにしても少し先の作品の構想を俳優に話すタイミングは難しい。目前に初日を開ける公演がある場合、それに集中している俳優に対して気を散らせるような話をするのは、(演出家である僕自身が目前の作品に集中していないように思われる心配もあって)どうも気が引ける。しかもク・ナウカの場合、次から次へと「初日」がやってくるので、結局のところ話すタイミングは、ある作品の千秋楽直後(ときによっては打ち上げの席)になることが多い。将来の構想は、必ず過去の反省を踏まえるわけだから、へとへとのさなかにこんな重い話をされる俳優は気の毒だと思う。
9月23日
北九州演劇祭十周年記念作品、泊篤志作『IRON』演出のため長逗留していた小倉のホテルで、侯補作を絞り込む。この演劇祭ではナイロン100℃を二度招聘しているので、ひょっとして事務席が持っているのではと思い、『私戯曲(カラフルメリィデオハヨ)』『スマナイ』『ウチハソバヤジャナイ』の有無を尋ねるが、残念ながらありませんとのこと。そこでク・ナウカ演出部の深沢襟に連絡、図書館でのコピーを頼む。
10月18日
上演作品を『ウチハソバヤジャナイ』に決定。シリーウォーク(ケラ氏の事務所)に上演許可を得るべく連絡。
10月31日
下北沢・スズナリでの『欲望という名の電車』初日。当日配布のパンフレットの“ク・ナウカ今後の予定”欄に『ウチハソバヤジャナイ』が出現し、「これってマジ?」といぶかる観客からの問合せが続出。
2003年8月8日
利賀演出家コンタールで外輪能隆氏演出『マクベス』を見る。失敗作だが、例によって外輪氏のセンスは鋭い。眠らせてしまうのは日本の演劇界にとってもったいない才能だと再確認。上演後の夜遅く、彼の泊まっている部屋を尋ね、サラリーマン生活を辞めて演劇に専念するようそそのかす。
10月9日
外輪能隆氏に、共同演出(戯曲の前半と後半に分けて)を提案するメールを送信。実はこの案、既に八月中から考え始めていたのだが、こうした突飛な思いつきは、思いついた僕自身がその突飛さを面白がりすぎて悦に入ってしまい、冷静な検討がおろそかになりがちなので、糖味噌桶の底の古漬けのようにわざと寝かせておいたのだ。そしてすっかり熱の冷めた頃に取り出してみて、うん、確かに行ける、と思えればGO。
2004年2月11日
稽古初日。前半と後半で、稽古期間もはっきり分けて、稽古場には演出家が一人しかいないようにした。自分が外輪氏の立場だったら、劇団主宰者が見ている稽古場で演出をつけるのはいやだと思うに違いないからだ。僕は前半の担当で、この日は読み合わせと、「都会の笑いと田舎の笑い」の講義。翌日から立ち稽古。
2月25日
外輪氏が大阪から上京、僕のパートの通し稽古を見に来る。稽古後、舞台監督の野口氏を交え、深沢襟の舞台美衝デザイン画を囲んでいろいろと検討。いよいよ二十七日から外輪氏パートの稽古。
3月5日
「ク・ナウカ朗読CD」の録音日。鴎外の『高瀬舟』を吹き込みに釆た阿部一徳から、外輪氏稽古の様子、俳優たちの苦闘を少しだけ漏れ聞く。よはどの大問題が起きていない限り俳優たちと外輪氏で解決してもらおうと考えていたので、出演者のメーリングリストに「苦しみを突き抜けて歓喜に至れ」(ロマン・ロランによるベートーベンの言葉)と激励を送る。
3月18日
本番初日。外輪氏の手腕に脱帽。『ウチソバ』から「人生の空しさ」というテーマを描き出し、見事に視覚化していた。俳優たちの健闘にも、一種「親バカ」的な胸キュン。
|