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劇場通い

『VOY』【evkk】

 高い八百屋舞台の輝く斜面を、逆さまに滑り(したたり)落ちてくる人物たち。それは主人公の精神科医Xの思考をすり抜けて消えていってしまうものなのだろうか。
 行方不明になったXの幼い娘。彼女は誘拐されたのか。依頼を受けた私立探偵の捜索は、どこにも行き着かない。絶望を癒すために小さな島に渡ったXのもとに、Aという女性が治療を求めに訪れてくる。Aは自分を作家だと言い、自分の作品の中に登場する事件が現実になると語る。そして彼女が語り出したのは、姿を消した少女の物語だった。Aの治療を始めたXは、更に深まっていく謎の中に落ち込んでゆく。
 事実と妄想、真実と嘘を分けるものは何なのか。そんなものが、はっきりと存在するのだろうか。心の中をのぞき込むうちに、物理的な時間と空間を超越して、様々なものが混沌としながら存在する、心の迷宮に分け入ってゆく。完成度が高い、外輪ワールドだ。
 誰の語ることに真実があるのか。我々はXが感じること、語ることをよりどころにして舞台を見ることになる。だがどこにその保証があるのだろうか。人は容易に欺くことができる、他人も、自分をも。舞台奥に映し出されるスライドの言葉は、単なる状況・心理の説明にとどまらず、芝居と有機的に働き合って、耳に聞かされるのとは異なる「理解」をさせてくれる。人の口からでなく発せられることで、言葉は一層、客観の側にあるように思えるのだが……。
 一人の閉ざされた人間の心を、繊細にしかし無惨に切り開いてゆく演技は、土本ひろき独特の、彼ならではのものだと思わされる。一見、無機的で冷たいのだが、時折、内面から静かに〈危険〉が燃え上がってくる、氷の炎。或いは、放り出されたメス。evkkにおける彼は、関西にオンリイワンと誉めてもいい程、魅力に満ちた名優である。
(劇場通いNO.81より 文:神澤和明氏 11月23日1時・芸術創造館)


『授業』【エレベーター企画】

 ベケットと並び、不条理劇の双璧と言われる作者。日本に紹介されてから早や四十年を過ぎる。当時はよく日本でも上演されたが、その後は見当たらず、最近また復活の兆しが見える。だが、珍しいと言う気が先立つ。戯曲では、登場人物三人の年齢、服装はもちろん、舞台の進展に伴っての感情や態度の変化までも細かに書かれてあり、装置描写もごくリアルで、舞台となる教授の部屋の窓から見える町の景色までも記述されてある。
 当時、来演した「ユシェット座」やいくつかの日本の劇団が上演した舞台の記憶をたどってみると、内容をよく理解しがたいままの中で、インテリ人である教授が、若い娘である生徒を殺してしまったあと、丈夫そうな百姓女のようである女中マリーに頼りっきりになる様子が、強く印象に残っている。そして、ハーケンクロイツの腕章、棺桶が四十もという台詞が、浮かび上がる。もう一つ、年老いたという教授の年齢指定が五十歳から六十歳くらいとある。当時からみても、急速に人間の寿命は伸びたようである。これは発見か。
 この舞台では、四角な演技空間が設定され、そこには白いA3大の紙片が折り重なって積もっている。その上に登場人物。顔から身体一面、包帯に巻かれた女(女中らしい)がいる。何かを整理している。男が包帯を解く。
 コミュニケーションの破壊と偏在と歪曲。その繰り返し、その先にある殺人。とは、パンフにあるコトバ。舞台の進行は戯曲通りのはずである。授業が始まる。1+1、数の概念。兆より上の単位の積の暗算、生徒は出来る。言語学に進む。女中が必死で止める。授業は進む。生徒は「歯が痛い」と授業に集中しなくなる。ナイフという言語、取り出して説明していくうちに、教授は生徒を刺殺する。慌てて女中を呼ぶ。二人の絡み合い。白い紙がザワザワと舞い上がる。不条理というよりも、象徴的な舞台という印象。何を象徴しているのか。感じるには後半がややしつこい。
[作]ウージェーヌ・イオネスコ[訳]安堂信也・木村光一 [演出]外輪能隆
(一〇月三一日 アリス零番館)
文:今泉おさむ氏
『劇場通い THEATRE GOERS' REVIEW (五〇)二〇〇四年一一月一五日発行』より抜粋


『大阪春の演劇まつり二人芝居プロデュース』

 A『ねずみ』[作]厄ちね子 [演出]河塚俊哉
 B『空蝉』[作]南出謙吾 [演出]米澤勇気
 C『ゼウスの嘆き』[作]よもやみのる[演出]蔭山理司
 D『チン!』[作]あおやぎれいこ[脚色]吉村一風 [演出・脚本]外輪能隆
 A=会社の同僚の結婚式。二次会散会帰りのタクシーに乗り合わせた三十台の男女。男は新婚、女は独身。その酔い紛れての会話。その会話内容、テンポが軽やかで面白い。ただ、題名とのつながりは何か。ラストの抱き枕を置いていく意味は。分からない。
 B=充分以上に取り散らされたアケミの部屋に、男と別れたと、荷物ともどもやってくるトモミ。これが若い女の部屋かと思うほどのなかで、交わされる会話。屑袋から見つけた紙片を読み、トモミは出て行く。この変化が分かりにくい。BGMとカセットCDの区別が付きにくい。
 C=嫉妬深いゼウスの妻ヘラはゼウスの愛人たちを雷で殺す。その前提があり、同郷の若者がマンションの一室で語り合う。そのうち、既婚の男が友人の妹と関係を持ち、とうの妹が兄の許にくることが明らかになる。そのやりとり。台詞よりも表情を使いすぎ。妹が来る途中で雷にうたれるのも作りすぎ。
 D=パンツ一枚の裸の若い男が登場。部屋を動き回る。そこへ若い女が入ってくる。男から逃れようと部屋中ドタバタと逃げ回る。その間、終始無言のままが数分続く。ようやく落ち着き、台詞。男の正体は古アパートで、一酸化中毒でつい先日死んだ〈幽霊?〉である。「出るなら同棲相手のところに出ろ」と女はなじる。途方もない話である。これも設定は面白い。だが、ラストのオチがさほど決まらない。
 この試みも3年目を迎えた。脚本をあらかじめ募集。「演劇まつり」の日程が終わったあと、参加劇団から、演出者・スタッフ・出演者が希望で決まり、劇団の枠を払ったメンバーで舞台を創り上げていく。これまで、組み合わされたことのない出演者と演出。中々興味深い舞台が出来る。スタッフも参加劇団の中で支えあっている。こういった交流からまた新たなものが生み出されるだろう。
(九月四日 プラネットパブリックスペース)
文:今泉おさむ氏
『劇場通い THEATRE GOERS' REVIEW (四九)二〇〇四年 九月一五日発行』より抜粋


「第28回大阪春の演劇まつり・まとめ」

 今年度も去る4月10日から8月1日まで4ケ月に亘って「春の演劇まつり」が開催され、合同公演、プロデユース公演を数えると20以上の劇団が参加し、18本の演目が上演された。
小説からの脚色2本を合わせると書き下ろし11本、既存作品7本。歴史のある劇団を中心に全体的に高いレベルの作品が上演された。会場も上演No10は一心寺シアター倶楽、13は谷町劇場、16はフジハラビルで上演されたがそれ以外の15作品は全て森の宮のプラネットホールで上演された。
 4月になれば、週末森の宮に行けば芝居が観られる環境を作り続けたユースサービス大阪を核とする主催団体と参加劇団で構成される実行委員会の労を多としたい。
 大阪府の財政の困難な状況はマスコミにも何度も取り上げられているが、文化の火を守り、育てる為28回を数える春の演劇まつりがさらに長く継続できるような施策を強く望みたい。
 上演作品のうち5作品については既に当誌48号でも紹介されているが、全18作品を下記で取り上げる。
(中略)
エレベーター企画『ぼくは747を食べてる人を知っています
[原作]ベン・シャーウッド[脚本・演出]外輪能隆 (七月三〇日夜)
 俳優,美術、小道具等演出の目が行き届いている。
乗り物としての自転車が効果的に使われ、人間の移動では表現できないスピード感があり総合的に完成度がたかい。自転車は車になり、椅子になり、状況の変化に応じて自在に変化し、違和感を生まない。「おれはあんたの気をひきたかった」と言う単純な行動が、747を食べることで表現するという男の想い。あなたのためにタージ・マハールを建てるというおとこの想い。それこそが至高の愛の物語り。と銘打ったエンターテイメント。人の心に大切なものを届ける方法は単純なことが最も力を発揮する、とあらためて思う。
 土本ひろき、阿部一徳、たきいみき、京ララ、外輪能隆という存在感のある俳優陣に交じり14歳の虎走萌も充分対応力を発揮、完成度を高める為の役割を充分果たした。(初日はピアノ生演奏つき)
文:一村 晰氏

『劇場通い THEATRE GOERS' REVIEW (四九)二〇〇四年 九月一五日発行』より抜粋


『第28回04年・大阪春の演劇まつり』を観て

 今年も参加20劇団による18演目の多様な舞台に接することが出来ました。その個々の舞台については米村さんが具体的に評していますので、その18の舞台全体を通しての思いを簡単に記させて頂きます。まず、結論から云いますと、個々のその内容と劇への姿勢です。其の劇を上演する当事者(劇団)と、その『劇(作品)』との関わり方です。劇団の多くが(特に若い人達の劇団が──)上演する作品(戯曲)そのものの内容と、各々の距離の近さに驚きます。それは戯曲の内容(世界)と直接関係しています。既成作品は5作品。1作品は既成推理小説の脚色。そして、12作品がオリジナル作品であったことに直接つながります。劇(戯曲)自体の内容はとも角、それは劇への積極的姿勢だと見ることが出来た様にも思います。そして、その各々の思いが託された劇作品(舞台)に、一様に《個的な世界》への傾斜が見えたところに、今年の(実は今年だけの事ではありません)特色というか、或る一つの傾向を観た様に思います。劇が対社会的課題、世の中の情況、或いは生活とつながっての問題が各々の劇に込められて在った、かつての時代の劇の在り様とは大きく変化を見せるその所に、今、我々が《劇をスル》ことの課題が大きく横たわっているのではないか、という思いがします。《劇をスル》ということは、スキ、キライ、無関心、いずれの姿勢に関わらず、『観客』という他者に観てもらう(観客が存在する)ことで成り立つ行為です。その限りに於いて《社会的行為》です。その認識に立って、次への劇作り、劇への行動につないでいって欲しいと念じること頻りです。既成作品による5つの舞台と併せて、劇が身近な事柄への興味に即した劇作品であったにも拘わらず、それら劇の世界が、あくまでも「表現」(その出来不出来は別として)あるいは「劇」のための行為として、自己との距離の近さにも拘わらず、『創り出された世界』──お話、物語り──であったところに、逆に『今』という時間での劇への行為の有り様と、劇をスルことの課題を見ることが出来たと云えます。
 さて、あと先が逆になりましたが、参加20劇団中、新しく参加した劇団は6劇団。14劇団が昨年に続いての参加だったことは嬉しい事でした。そうした反面、「春演」を立ち上げ、その中心として支えて来た「劇団大阪」「劇団きづがわ」が不参加だったことは、今年のプログラムに或る淋しさを感じさせました。その事と、「春演」は春の演劇の《お祭り》である筈ですのに、心をわくわくと揺さぶる楽しさ、触発する舞台、劇へ引き寄せる劇的な動き、高揚感が見られなかったのが残念です。そして、ちんまりとプラネットのステージに納まり、収束されていく舞台が殆どだったのも残念でした。観客を挑発する様な舞台が欲しかったのは、筆者一人だけの思いでしょうか。《劇》と《演》の文字の本来の意味に思いを馳せながら……。(04/8/16)
 さて、今年の各部門への受賞された方々は、次の通りです。今年はこれ迄、受賞の無かった『作品賞』(舞台全体の成果、出来への総合賞)が初めてありました。これも今年の舞台の成果のあらわれの一つです。
1.作品賞 エレベーター企画『ぼくは747を食べてる人を知っています
2.男優賞 要 冷蔵(劇団往来)
3.女優賞 柳辺 育子(劇団息吹)
4.男優新人賞 島 芳道(劇団未来)
5.女優新人賞 該当なし
6.スタッフ部門 音楽・効果 劇団翠
7.スタッフ部門 美術 劇団ガバメンツ
8.企画賞(特別賞) 厄プロジェクト
文:粟田 右氏
『劇場通い THEATRE GOERS' REVIEW (四九)二〇〇四年 九月一五日発行』より抜粋

Last Update 16/02/14